残業女子のゆるゆるバランス自炊

毎日仕事で帰りが遅くても、手を抜きながら健康的な食生活を整えるために工夫しています

食べ物に正しい値段を払うこと

日本の「食」は安すぎる 「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書)
日本の「食」は安すぎる 「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書)

「うちの社食って高いよね」と、わたしの同僚たちは言います。

カレー1杯250円。
グラタンひとつ160円。

確かにカレーには大きい具材は入っていないし、グラタンは他のメニューの残り材料が入っている感満載。
でも、これのどこが高いのか?
材料費や光熱費、人件費を考えたらむしろ安すぎるのではないか?

と思っていました。

そんなところにこの本を見つけて、おお、と思って手に取りました。

本の中では、マックや300円ラーメンを例に挙げています。

もちろん外食産業ではコスト削減に力を入れていて、大量仕入れで重量当たりのコストを下げたり、仕入れルートを見直して中間マージンをなくしたりといった努力をしている会社も多いと思います。
食費以外の、設備や外装の面で節約したり、オペレーションを改善して人件費を下げたりすることもできます。
それにしても、やっぱり安すぎるものは存在します。

「安すぎるものは、そのしわ寄せがどこかに来ている」と本書では述べられています*1

安いと何が問題なのか

メーカーは、消費者が買ってくれる値段から逆算して製造にかけられるコストを決めています。
物の値段を下げようと思えば、当然かけられるコストも少なくなります。
食品偽装などの事件は、この中で利益を得るべく「不正を行わなければならない状況に追い込まれた」ために起こることだとされています。
つまり、消費者が安いものを求めるあまり、メーカーに不正を引き起こさせてしまうのです。

不正とまではいかなくても、本来の作られ方がされなくなった食べ物の例もたくさん紹介されています。
化学調味料を入れて不自然な味になった漬物、凝固剤を変えて食感も変わった豆腐、タンパク質を注入して水増しされたハム…
これらの食品を否定するつもりは、私はありません。庶民にとって安いことは大切ですし、安全であれば拒否する理由もありません。
ただ、安く提供されているのには理由があるということを頭に入れたうえで選択したほうがいいと思っています。(理由は後で述べます)

高くても国産を選ぶ、安全面以外でのメリット

コストを下げようとすると、どうしても輸入の原料に頼ることになります。
地元の食材を使って輸送費を節約するより、遠くから運んできたほうが安くなるのは不思議な感じもしますが…

しかし、いつまでも安い原料を海外から輸入し続けられるとは限りません。
できるだけ食料自給率を上げるという観点から、国産のものを支援する必要があります。

減反政策で使われなくなった田んぼで飼料用の米を栽培すれば、食料自給率が上げられる」と述べられていて、なるほど!と思いました。

「安物」と「高級品」のあいだ

安さを求めて作られた一般的な食品と、品質にこだわって作られた食品の間には、かなりの価格差が存在します。
安すぎるものは心配だけど、高級品は手が出ない。この中間に当たる商品にニーズがあるのでは?と提案されています。
そして、この中間品を担うのがスーパーのPB商品だと言われています。

どちらかというと、PBブランドはメーカー品よりもとにかく安く、というイメージがありましたが
品質は高めつつ、ブランド名がない分安くすることで、中間層を埋めていくことも確かにできるな、と思いました。

消費者にこそできる「買う」という行動

食品の安全や品質というと、とにかくメーカーの努力が求められますが、消費者には何もできないのでしょうか。
消費者にできることとして、「買い支える」という行動が提案されています。

食品のメリット、デメリットをきちんと理解し、自分の価値観に基づいて商品を選ぶ。
適切なお金を払うことで、その商品や作っている人々を支援する。

この「自分の価値観に基づいて判断する」というのがポイントだと思っています。
安いということも大きなメリットです。それがよいと思うなら、買えばいい。
ただ前にも書いたように、安い理由と高い理由があることを知って選ぶのと、ただ安いものに飛びつくのは違います。
自分でこちらを選択し、お金を払うのだ、という意思表示をすることが重要だからです。

最後の「労働者もまた消費者である」という章が、私が最近考えていることと似ていました。
消費者の利便性を追求するあまり、労働者が苦労を強いられるようになっている。労働者だって仕事を離れれば消費者なのに…ということなのですが、これは食品以外にも言えることだと思います。
あらゆるものがどんどん安くなっている世の中ですが、それは労働者のサービス残業などの人件費カットによって賄われている面が多くあると思います。
きちんと労働者に対価を払って、それを製品価格に反映する。
消費者は増えた分の収入で、高くなった製品を納得して買う。
この仕組みが成り立てば、経済も回るし幸せな人も増える気がするのですが。
楽観的すぎますかね?

*1:食品加工業界で働く著者の友人の言葉

一日何杯のココアで記憶力の低下が抑えられるのか?

記憶力の低下を抑えるココアのフラバノール

「○○中の成分××に~~という効果が!」
この手の記事を読むと、「で、~~という効果を得るためには○○をどれだけ食べればいいの?」と反射的に思ってしまいます。

今回の場合は、「記憶力の低下を抑えるためにはココアをどれぐらい飲めばいいの?」な訳ですが。
この記事によると、記憶力の低下防止に効果のあった「高濃度フラバノール食」で、1日に900mgだそうな。
900mgをすべてココアからとろうとするとどれぐらいになるんでしょう?調べたけどわかりませんでした。

例えばココアを1日10杯飲まないとこの量が摂取できないなら、ちょっと非現実的ですよね。
高濃度フラバノールココアを売り出すとか(トクホみたいな感じで)、いっそサプリにしてしまうとか、そういう活用の仕方になるのでしょうか。

がんと食事の関係が一転した理由

特定の食材によるガン発生リスク軽減説の根拠が弱まっていることが判明

ガン発生のリスクを下げるためには、体内の正常細胞を攻撃するフリーラジカルの発生を抑制する抗酸化物質やフィトケミカルを多く含む食物が効果があるとされたり、昔ながらの農村や古代人が食べていた食事に戻ることが推奨されるなどの動きがありましたが、2014年4月に1万8000人以上の研究者が参加して開催された全米ガン研究会議(American Association for Cancer Research:AACR)の年次会議で明らかにされた研究内容によると、それらの食物とガン発生のリスクの間にはほとんど関連性が見られなかったとのこと。

だそうな。

がん予防に効果のある食材と聞いて、アメリカのデザイナーズフーズ計画を思い出しました。
フィトケミカル*1を摂取するために、がん予防に効果のある食材をリストアップしたものですが、これも現在はなくなっているそうです。

研究結果が一転することになった最大の理由は、研究で用いる手法がより緻密なものになったためと考えられています。以前の研究では、対象者への聞き取りは本人の記憶に頼るところが大きかったのに対し、現在ではより科学的な検証方法が取り入れられたことで、客観的な検証が可能になっています。

と記事にはあり、手法の変化が結果に影響を及ぼしたと考えられています。
しかし、英語の原文を読んでみるとすこーし意味が違うような。

原文では、これまでの研究が"retrospective"で、過去を思い出す方法
現在の研究が"prospective"で、大人数の健康をリアルタイムで追う方法、と書かれています。
retrospectiveには「懐旧的な」、prospectiveには「将来の」という意味があることから、この記事では「これまでの研究は古くてイマイチな手法、今の研究は新しくて良い手法」というニュアンスで解釈したものだと思います。

しかし、これは疫学の用語で
retrospective:後ろ向き研究(過去の事象について調査する研究)
prospective:前向き研究 (研究開始後に起こった事象を調査する研究)
であり、後ろ向き研究より前向き研究のほうがエビデンスとしてのレベルが高いとされています。

「手法のレベルを上げたので正確な結果が分かるようになった」
という内容は、原文も記事も同じなのですが
「過去の研究が緻密ではなかった」という解釈はちょっと違うような気が。

話が脱線しましたが、研究が進むにつれて結論が変わることもあり得るので、古い知識にこだわらず新しい情報を仕入れつつ
現在の情報も「今の研究から分かったこと」という但し書きがつくことを頭に入れて、自分で考えながら解釈していきたいです。

*1:植物中の成分で、健康に良い影響を及ぼすとされているもの。がん予防に良いとされているものだと、ショウガ中のジンゲロールやブロッコリー中のスルフォラファンなど

日本人は問題になるほどトランス脂肪酸を摂取していない

米国人にはまだトランス脂肪が重くのしかかっている

ミネソタ州での脂肪摂取に関する調査を継時的にまとめた研究です。

調査の結果では、1日の総エネルギー摂取量におけるトランス脂肪の割合は、男性では1.9%女性では1.7%であった。米国心臓学会では1%以内に抑えるよう勧告している。

とのこと。

これでも、1980~1982年の調査に比べると3分の1の減少がみられたそう。

では、日本人はどれくらい摂取しているのかな?と思って調べてみると、
農林水産省のサイトにトランス脂肪酸のことがまとめてあるページがありました。

すぐにわかるトランス脂肪酸

ここによると、日本人の摂取量はエネルギー摂取量の0.3~0.6%と見積もることができるそうです。

「心臓病のリスクを高めるかどうか」という観点からすると、現状問題なさそうです。
ただ、脂質の摂取量が増えればその分トランス脂肪酸も増えると推測されるので、油断はできませんが。

カフェイン抜きのコーヒーだけが肝臓に良いのか?

カフェイン抜きのコーヒーは肝臓に良いかも

このタイトルを見て、
「カフェイン入りだと何か問題があるのか?」と思って記事を読み始めたのですが

1日に3杯以上のコーヒーを飲む人は、コーヒーをまったく飲まない人に比べて、ALT、AST、ALP、GGTが低めであることが明らかになった。カフェイン抜きのコーヒーしか飲まない人でも同様の傾向が見られたという。

とのこと。

要するに、カフェインが問題なのではなく
カフェインが含まれていようといまいと、コーヒーは肝臓に良いかも。ということ。

この結果は、「コーヒーに含まれるカフェイン以外の成分が肝臓に良い影響を与えている」ということが分かるため、
今後の研究に大いに生かされていく有用なものであると考えられます。

しかし、この記事のタイトルは問題ありなのでは?
なぜなら、この結果がイコール「カフェイン抜きがよい」ということにはならないはずだからです。
あえてカフェイン抜きを推す理由が見つかりません。

いや、間違いではないんですよ。
でも、「通常のコーヒーでも肝臓に良い」ということが伝わらないタイトルですよね。

「コーヒーの成分が肝臓を保護する」とかぐらいでいいんじゃないでしょうか。

最近ネット上の栄養に関する記事をチェックしているのですが
(前回・前々回の記事にあるように、Facebookでシェアしようと思っているので)
たまにこういう、記事のタイトルと内容にギャップのある記事が見受けられます。

きちんと論旨を反映したタイトル付けをしてほしいと思いつつ、
読み手としては、文章はきちんと最後まで読んで理解しなければ、と感じたのでした。

理解されたいけど、共感されなくてもいい

前回記事にあったとおり、Facebookにニュース記事を投稿してみました。

 
 
この記事です。
 
予想通り、数人からしかいいねをいただいていません。
 
私の意見としては、
 
・「健康な食事」がどういうものなのか広めるツールとしてはいいと思う
(マーク付きのお弁当を食べてみて、これぐらい野菜をとればいいんだ、などといったことがわかるから)
・「これを食べていれば健康になれる、安心」と思われるような使われ方はして欲しくない
(常にマーク付きのものを食べて生きていくわけじゃないし、ついていないものでも組み合わせと工夫次第で健康な食事にできる。最終的にはそういうことが考えられる力を身につけるべき)
 
()内は、長くならないよう実際には書いていない部分です。
でも、書かないと言いたいことは伝わりにくかったかも。
 
あとは無意識に、「栄養教育する側」の視点で語ってしまったところがあるので、友達の多くの「される側」*1に立って書けばよかったなと。
 
つまり、
・「健康な食事」マーク付きのお弁当を食べることで、どういう食事が理想的か身をもって知ることができる
・「これを食べていればよい」と思うのではなく、最終的には自分で作ったり、組み合わせたりできるようになったほうがよい
 
みたいな感じかな。
 
厚労省の「健康な食事」検討会の報告書を見ると、国民の食に対する意識で一番高いのは食の安全についてなんですよね。
健康については2番目。
 
というわけで、共感される最大公約数的な記事を書くには
「健康とかいいながら、添加物に関する規制はないんだね」
とか書いたらいいねがたくさんもらえたかもしれません。
実験してみたいけど、思ってもないことは言えませんので…
 
自分の考えをわかるように、伝わるように書くことは大事なので、心がけていきたい。
けれど、論旨を捻じ曲げてまでやるのは本末転倒だなあと思ったのでした。

*1:わたしも今はこちらなのですが

自分の考えを発信すること

本筋から離れて、わたしのことを書きます。

わたしはこのブログで、健康情報とそれに関する自分の考え・感想を書いてきました。

自分の考えをネット上で発信するのには、いろいろな手段があります。
FacebookTwitterもやっているのだから、そこで発信したっていいわけです。
このブログは現状、1日よくて20pvぐらいです。
Facebookの友達数はそれよりずっと多いのだから、記事が人の目に触れる機会も増やせる。
シェアやいいねもしてもらえて、話が広がる。

なぜそれをせずに、ブログを新たに立ち上げるという行動に出たのでしょうか。

Facebookではなく匿名のブログに書く理由

答えはふたつあります。

興味を持ってもらいにくいから

何回かニュース系の記事を感想付きでシェアしたことがありますが、たいてい数人しかいいねがつきません。
それ以外の投稿なら、何十人という単位でいいねがつくのに、です。

「いいね!」をつけられるためには、多くの人が共感する内容を載せなければならないので
日頃のできごとなり、食べたごはんなりのほうが、ニュース記事よりもいいねが多いのは納得なのですが、
あまりにもいいねが少ないので、少なくともわたしの友達*1には、あまりこういう記事は求められていないのかな…という気がして、
書くのをためらうようになりました。
Twitterでいうなら、TL汚しすみません、みたいな気分になるのです。

知っている人に対して自分の考えを明らかにしたくないから

なにまじめなこと言ってるの?と思われるのが怖いです。

Facebookの使い方には2パターンあると思っていて、
ひとつはプライベートの共有(いわゆる自慢話ともとられる投稿)、
もうひとつは興味のある記事のシェア。
前者の使い方をする人と、後者の使い方をする人*2が、私の友人の中では混在しています。

後者の人に読まれることにあまり抵抗はありません。わたしと同じことをしているはずなので、批判されることはないからです。
前者の人に私の記事を読まれるのが嫌なのです。

前者の人は、Facebookで頭を使うような投稿をすることはないわけです。
そんななかで頭を使うアクティビティをすると、馬鹿にされるのではないか?という先入観が捨てきれません。

そう思うようになったきっかけは中学のときだと思われます。
ちゃらんぽらんな中学に通っていたので、小説を読んでいるだけで周りから真面目だねーとからかわれたりしました。
友人は、冬休みの目標に「大好きなハリーポッターを原書で読みたい」と書いたら、「頭がいいからって」と陰口をたたかれていました。
わたしも友人も、本が好きだから読んでいただけで、真面目だからとか頭がいいからとかは関係ないのに。(確かに彼女は優秀でしたが)
みんながメイクとか、恋愛とかに興味があったのと同じように、わたしたちは本を読みたかった。
それを異端だと思わないでほしかった。

それと同じで、
みんなが食べたごはんやデートの行き先やらの写真をあげるのと同じ感覚で、
栄養関係のニュースをシェアすることを嫌がらないでほしいのですが、
どうしてもあのときのように、「何この人?」と思われるのではないか…
そんな気がしてしまいます。

それでもやっぱりFacebookを利用してみようと思ったわけ

そんなわけで、Facebookを利用するメリットよりデメリットが大きかったわけですが
メリットをいろいろ考えていくと、やっぱり自分の知っている人に記事を読んでもらったほうがいい気がしてきました。

やっぱり情報発信はいろいろなところで、出来るだけ多くの人にしてみたほうがいいかな…というのと、
自分の興味を明らかにしておいたほうが、今後の役に立つというか、なんかご縁がつながったりするかな…と思いまして。

ただ、長文を書くのはやはり抵抗があるので、
しっかり考察して語りたいときはこちらのブログも使っていきます。
Facebookはあくまでもシェアする記事をメインとして、さらっと考えを書いてみようかと。
簡潔に書く練習にもなりますしね!

というわけで、こちらのブログでは今後とも長文にお付き合いください。笑


というか、FacebookTwitterも以前はいろんな意見や記事のシェアがばんばん飛び交ってて面白かったのに、いつのまにか個人の日記サイトになってるもんなあ…

*1:医療従事者や関係者、管理栄養士資格保持者も多いはずなのですが…

*2:シェアしかしないという人はいませんが、シェアする人は結構たくさんの記事をシェアしている気がします。しない人は全然しませんね。